天才的なアートが生まれる由来について

bookended2008-05-11



忘れもしない2001年『911』直後のRADIOHEAD来日公演初日。
トムヨークは「everything in its right place」の前に、R.E.M.の「It's the end of the world (I fell fine)」を歌った

知ってのとおり 今日は世界の終わり でもいい気分さ 
1.2.3. すべてはあるべきところに




ユングの心理学の立場からある程度説明できるかもしれません。かなり大胆に述べます。以後、難しい理論は簡略化するので一部不正確、あるいは箇条書きで説明不十分です。様々な医学文献より引用を多用しています。




医学上、統合失調症自閉症近縁とされる人々(偉大な科学者、芸術家に多い)はユングの解釈でいけば「他人と比べ無意識に従った行動をとりやすい人」といえます。
無意識とは、「夜に観る夢」や「偶然のできごと」、「自然の大きな流れ」などに例えられるかもしれません
その中には当然ですが、意識では許容しきれない内容や矛盾した思想、途方も無い発想までが含まれます。それはこの世を超越した何か(世界全体、空間、時空すべてを抜け最終的には原初の神々の領域)に通じているのです。
(余談ですが現代社会は意識≒自我を強大にして無意識≒自己(自然、宇宙そのもの)を圧倒することで進歩してきました、しかし行き詰った。今また再び無意識から生まれるものを見直すときに来ているのかもしれません)

無意識の内容に足を踏み入れてしまうこと、すなわち神々の領域に足を踏み入れることは、富士の樹海に迷い込むようなものです
下手すれば迷って出て来れなくなる危険をはらみます(この「無意識へ沈むこと」を心理学用語で「退行」といいます)

ユングによれば退行には「病的退行」と「創造的退行」があります。病的退行は幼児化につながり、無意識の中へ自我が拡散し、最終的には精神の完全な破綻に至ります。創造的退行は無意識の中から貴重な宝物を拾い出すことで精神の成長につながり、素晴らしい仕事(ビジネスにせよ芸術分野にせよ)つながります

たとえば革新的な音楽とはおおむね創造的退行の所産だと思います。
一番分かりやすい例はRADIOHEADではないでしょうか。1stから3rdまでの作品において、自我がなしとげられる最高水準の音楽を完成させKIDA/Amnesiacにおいて一度今までのフォーマットを完全に解体させる(つまり、この双子アルバムは「創造的退行」であり、来世≒涅槃への旅路と帰路となっている)。そして最新作にて新たな存在感を提示したのですから。

ここが一番重要なのですが、退行を創造的なものにするには強い意思の力、過去の経験の蓄積、何よりも周囲の人間関係のサポートが必要です。例えばトムヨークにとっての奥さんや子どもみたいな。ここは強調しすぎてしすぎることはない。

以下はブックレビュー。

『もうホントこれ以上あたしに何か聞かないで下さい、人がそんなに大切だとはっきり感じたこともない、愛情なんてその感覚が実感としてない、あたしは子どものころから他人とうまく接する方法がわからないのだ。
あたしは何も考えていないのに「何を考えているかわからない」などとよく人に言われた。言いたいことなんて何もない、ずっと一緒にいてほしいと思うと同時に放っておいてもらいたい、その矛盾にあたし自身もずいぶん苦しめられた。変化など望んでいない、悲しくて泣くとか、うれしくて笑うとか、いろいろな感情を出すのがとてもおっくう。
うれしいと思ってもそんな簡単に笑えるもんなんだろうか、みんなは本当におかしくて笑っているんだろうか、泣くこともそうだ、あたしは感情と涙がうまくつながらない。』(森下くるみ / すべては『裸になる』から始まって)



このへんの描写はすうっと胸にはいる。
目当てで行く人も多いんだろう。「森下くるみ」という名前を最初に見たのはクラブイベントのフライヤー。DJとして、確か新宿リキッドルームかロフトあたりだったと思う。たぶん。それから何年もたって、本業は『AV女優である』彼女の自伝本が出ているのを見た。表紙の本人の似顔絵が目に止まった。パラパラめくってこれはロックンロールだと思った。10年前に、本業は『ロックミュージシャンである』尾崎豊の短編集を手にとったときと同じだ。

乱暴な解釈か、そうでもないよ、要はその人の生身を本気で理解できるか。


銀杏BOYZ峯田和伸は「死にたい」という手紙をファンからもらうってライブでMCする。森下くるみは「死にたい」というメールをファンからもらうと書いている。このへんがリンクする。




ミドリがメジャーデビューやフジロック決まった頃。名古屋でのライブを観て何か違和感を感じた。「これが本当のロックじゃ−!」と叫びながら機材に登り、フロアに飛び降りてのたうちまわる後藤まりこは、確かにかっこよかったけど同時に、どこか危うかった。
以前イベントにミドリを呼んだことがあるCRJ-Cのスタッフが「今のほうが迫力あるけどなぜか昔のほうがいい気がする」。ともらした。
JONNYのみおさんやレッサーホース/マイカー共済の野村君は「パンツ見えたか、パンツ見えたか」と、とりあえずはしゃいでいた。その後も彼女らは名古屋で何度もライブしていた。

あるとき、つしまみれの話からミドリの話になって、カマキリバズノイズの田中君が
「客席に落ちて暴れまわるから、パンツぬがされそうになったらしいぜ」
と言った(真実かどうかは知らない)。ふざけんな、パンツ見えたかってふざけて言ってるのはともかく、それを手を出すなんて、たぶんそんなことを怒鳴った。「ああ、(レッサーの)野村くらいのスケベがちょうどええんや」と田中君は目をパチパチさせた。


ふりかえれば、ミドリのステージに感じた違和感は「その手」だったかもしれない。
ミドリがメジャーでやるということは剥き出しのロックを大衆にさらけだす。いわば最大規模のストリップだ。(同じようなことをBUMPの藤原君が言っていた気がするが)
彼女を裸にしようと伸ばされた手は、メジャー会社のミドリを売り出すための手でもあるし、もちろん彼女達を好奇の目でみやる大衆だし、その「手」は私たちすべての心の中にある。それはある意味、善悪を超越した流れだ。
 差し伸ばされる手は、トムヨークがRADIOHEADの曲で表現するダークパワー、ハリウッドが若い俳優の生き血をすするアレで、同時に村上春樹の「ねじまき鳥クロニクル」、綿谷昇が「人を完膚なきまでに損なわせる」力。




世の中には2種類の人間が居る。賢い人間と素直な人間だ。賢い人間は誰かがつくった規律が全てだと思っている。だが俺はそんなもの屁とも思っちゃいない(エディ・リー / ダイングブリード 注 BECK作中に登場するNIRVANAスマパンパールジャムを合わせたような架空のロックバンド)』
残念ながら、このスタンスは死と隣り合わせ。
パールジャム鶴舞名古屋市公会堂で観たことがある。ビルゲイツが2階席を買い占めて観戦していた日。エディヴェダーは通訳に話させる、「この世界には排除すべき3人が居ます。アメリカのブッシュ、北朝鮮の〜、イラクの〜」、ブッシュのお面をステージに出して首を刈るパフォーマンスを真顔でする。「みんなで声を出せば世界は変えられるはずです」。その日のライブ盤は手元にある。(パールジャムはツアー全日程のライブ盤をリリースしている)





森下くるみの本に、話をもどす。
幼い頃、暴君である父親を殺してしまおうと、姉弟で話し合っていた、ある日、ついに父親を家から追い出した、生まれて一番うれしかった! そんな記述がある。うまく言えないがこの部分がとても印象に残っている。後半、父と和解のようなものをするくだりがある、その部分もまた素晴らしい表現だ。それらは淡々と描かれている。わざとらしくドラマチックよりよほどリアルだ。
ドストエフスキーの「カラマーゾフの兄弟」を挙げるまでもなく、文学において「父殺し」あるいは「エディプスコンプレックス」は主要なテーマ。だけど彼女ほど的確に表現している作家は少ないと思う。

伊坂幸太郎が今年の本屋大賞を受賞した「ゴールデンスランバー」、主人公青柳雅春は首相殺しの汚名を着せられ逃げ回る、青柳雅春の自宅にマスコミがつめかける、青柳雅春の父親は「ちゃっちゃと逃げろ、こっちは大丈夫だから」とTVに向かって言い放つ。
オールライト、誰もが息子を疑う時、父親がそう言ってやらなくて誰が言うのか。息子を助けるために実際にできることはないかもしれない、でもな、本気で「大丈夫だ」といえるかどうか。




以降は少し長くなるが、ゴールデンスランバーの引用。青柳雅春の父親の言葉とそれを聞く青柳雅春。


「自分の仕事が他人の人生を台無しにするかもしれねえんだったら、覚悟はいるんだよ。バスの運転手も、ビルの設計士も、料理人もな、みんな最善の注意を払ってやってんだよ、なぜなら他人の人生を背負ってるからだ。覚悟を持てよ」(マスコミに対してそう言い、次にTVカメラに対して)
「おい、雅春。おまえがなかなか出てこねえから、面倒なことになってるぞ。」「いいか、大変、面倒なことになっております。」となぜか、丁寧に言い直した。
「面倒なことになっておりますかあ。」青柳雅春はテレビのこちら側で苦笑する。
「まあ、でもな」青柳雅春の父が表情を緩める。「こっちはどうにかするから。母さんもそれなりに元気だ。お前もどうにか頑張れや。」
犯人の逃亡を擁護するような発言に、油が注がれた焚き火よろしく、リポーターたちが大騒ぎをはじめ、マイクがまた振り回された。
それでも青柳雅春の父は動じることもなく、「まあ」と続ける。「雅春、ちゃっちゃと逃げろ。」
青柳雅春は胸のあたりから喉元に、重い空気のかたまりがこみあげてくるのを感じた。そのまま気を抜くと、何が起きるのかは想像できた。喉にせり上がった思いが、目を震わせ、そして涙が出る。出た涙はすぐには止まらず、自分は嗚咽まじりに泣きじゃくるに決まっていた。(伊坂幸太郎 / ゴールデンスランバー




再び、長くなるけど、森下くるみ / すべては『裸になる』から始まって、から引用。


家族っていったい何? というのが、ながらくあたしの中で謎になっていたから。
今の私の父との関係も、変わるのならば変えてみたいと思った。
トラウマなんてたいそうなものはもっていない。だけどちゃんと父と対峙しなければ、
自分の問題が解決しない。

帰り際、父が見送ってくれたことがあった。
見送りされるだけでも気持ち悪いくらいの親切さだ。去り際、改札をくぐるあたしに満面の笑みで手を振り
「気をつけて帰れよ、じゃあまたな。ありがとうなあ!」
はたから見たら何の変哲もない光景、でもあたしにはショックだった。子どものころにほめられたことなんか一度もないし、やさしい言葉をかけられた記憶もない。罵声か鉄拳しか食らったことはない。その父に気をつけてと言われたのだ。
あの父が子どもにそんな言葉を使うなんて。
初めて見た、その父の素直さがしんじられないくらいうれしかった。
森下くるみ / すべては『裸になる』から始まって)





一緒に買った村上春樹の絵本、「ふしぎな図書館」を読む。

<さあ、いまのうちににげて>とむくどりが言った。でもそれは少女の声だった。
「君はどうするんだい」とぼくは少女であるむくどりにたずねた。
<私のことは気にしないで、きっと後から行くから。さあ急いで、でないとあなたは永遠に失われてしまう>
僕は言われたとおりにした。羊男の手をとって、へやから飛び出した。
村上春樹 / ふしぎな図書館)








「姉さんは十代の終わり頃、当ても無く海外を放浪しててね。あの人いわく自由やら幸福やらを見つける旅だったらしいけど、僕には逃避にしか思えなかったね。だって結局姉さんは帰ってきたんだ。つまりその程度の覚悟だったってことだよ。全てを捨て去る覚悟、その対価として与えられるのが真の自由だと思うんだよ。でも僕はその自由の先に幸福があるなんて思えない。 なぜなら幸せとはその瞬間であって、恒久的なものでは決して無いから」(おやすみプンプン/浅野いにお

ねえ、時間は膨張するの?  (羊をめぐる冒険 / 村上春樹

この街の完全さは「心をなくす」ことで成立しているんだ。心をなくすことでそれぞれの存在を永遠にひきのばされた時間の中にはめこんでいるんだ。だから誰も年老いないし死なない。」  (世界の終わりとハードボイルドワンダーランド / 村上春樹

「その代償は?」
「それを言葉で説明することはできない。それはあらゆるものを飲み込むるつぼなんだ。気が遠くなるほど美しく、そしておぞましいくらいに邪悪なんだ。それに身体を埋めればすべてが消える。意識も価値観も感情も苦痛も、みんな消える。宇宙の一点にあらゆる生命が誕生した時のダイナミズムに近いものだよ。」
「でも君はそれを拒否したんだね。」
「俺は俺の弱さが好きなんだよ。苦しさも辛さも好きだ。夏の光や風の匂いやせみの声や、そんなものが好きなんだ。どうしょうもなく好きなんだ。君と飲むビールや・・」(羊をめぐる冒険 / 村上春樹
「いずれにせよ全ての激しい戦いは想像力の中で行われました。それこそが僕らの戦場です。僕らはそこで勝ち、そして敗れます。もちろん僕らは限りある存在ですし結局はみな敗れ去ります。 でもアーネストヘミングウェイが看過したように僕らの人生はその勝ち方によってではなく、その敗れ去り方によって最終的な価値を定められるのです。」(かえるくん、東京を救う / 村上春樹


「君は世界がよくなっていくと信じているかい?」
「何がよくて何がわるいなんて誰にわかるんだ?」
「まったく、もし一般論の国というものがあったら君は王様になれるよ」 (羊をめぐる冒険 / 村上春樹


「本当に私を憎まない?」
「もちろん」と僕は言った。「憎んだりしない。そんなことあるわけない。この不確実な世界にあって、それだけは確信をもって言える」
「絶対に?」
「絶対に。2500%ありえない」
「それが聴きたかったの」
僕は肯いた。(ダンスダンスダンス / 村上春樹







「日差しがぼかぼかして気持ちいい日です」、そう言われてうなずき、
「この世界はクズで何もかもが私をダメにする」、そう言われてもうなずく。
この作品はここで完成する。

bookended2008-04-29

森下くるみ、すべては「裸になる」から始まって人気AV女優の自伝本、文庫、
彼女のAVを見たことがなくて本を手にとった数少ない一人だと思います、私、あっという間に読みおえて、自伝本に対してこんなことをいうのは不適切かもしれない、けれど、自分が描きたい、そう思う小説のひとつのパターンです、調べたら、DJ活動でトムヨークの曲かけたり、ロマンポルシェの人と一緒に出てる、
そういえば今年、名古屋クアトロにロマンポルシェが来たとき、マイカー共済のベースとしてレッサー野村君がタイバンしてる。


以下は彼女のblogより。大阪は心斎橋のクアトロで、イースタンユースのライブ観てました。ぉぁーーー すんごかった。。 ビリビリ痺れました。かいつまみますと、MC。『退廃するのはね、簡単デスヨ。壊す勇気と、 …バイタリティ。それを持ち得る人が、明日に往けるのだ。嗚呼。ロックンロールがあって、良かったなぁ。だから明日も生きていられる。』そんな事を仰ってた。(以上、引用)
イースタンユースはかつて名古屋のバンド「TEASI」を絶賛しクアトロで2マンした。今年は「OGRE YOU ASSHOLE」の自主企画に出ます。

『WHICH IS THE RIGHT BRAIN』日時:6月12日(木) 開場18時 開演19時
会場:名古屋CLUB QUATTRO 料金:前売3000円 (ドリンク代別途必要)共演:eastern youth


26日、名古屋クアトロへ「竹内電気」ワンマン見に行きました。
会場は24-twofour-iGOといった盟友バンドのメンバー以外は、ひと、ひと、ひと、女性客、若い男子ばかり500人!
曲目はビクターからの1stフルアルバム全曲に数曲の古いナンバー、加藤君のコントを織り交ぜて、いやーしかし斉藤伸也は凄いと思う。
加藤君が素人まるだし(そこがかわいい)コントですべっても、彼がピースして「わー!!!」と出てきたらそれだけで会場爆笑。あ、ほめてるんですよ。
しかしユニバースとかギター歪みまくりの昔からのかっこいい曲をやると、会場静まり帰る、メジャーアルバムの曲は受ける、
だいたいが曲づくりは本来、昨日のダサい自分を越えるためにするべきなんだけど、それをやっちゃうと大衆と差が開けちゃう


27日、栄アップルストアviridianを見に、ビクターの中川さんがナディアパークの公園で時間をつぶしていた、cinema staffmudy on the昨晩といった名古屋の盟友バンドが遊びに来ている、しかし、さのひとみの声は才能だと思う、myspace です、景色が変わる声、ヘッドステレオにエンドレスリピート

何かが失われていくことについて、それは運命だった、あらかじめ定められていた / 誰かがそう考えた時に、それはそう、定められてしまうんじゃないだろうか / そういった考えそのものが、すべてを規定してしまうのではないだろうか / 世界中の人々が「世界は滅びる」と信じた時、ゆっくり世界は忘却の中に沈む、とりかえしようもなく損なわれてしまう / 静かな孤島の浜辺で、銃口を向け合う二人の男が、かつて同じ歌で泣いたことがあったとしたら / 世界で二人きり、異邦人がいたとして、孤独さゆえに本来理解しあうべきお互いを傷つけあったとしたら / 文明が滅んだ世界、ある星で二人の飛行士が出会い殺し合った末に、自分達が人類最後の二人だったと気づいたとしたら / あらゆる孤独は決してなにものによっても埋められないはずがない



イアンカーティスの生涯をつづった映画「CONTROL」を観る。
白黒のポートレートをつなぎあわせたサウンドトラック。そんな印象。
一つ一つの場面がまるで名画のように完成されたアート。角度、配置、構図が美しい。
淡々とJOY DIVISIONの歴史が語られる。
ライブシーンの描写だけでも観る価値はあると思う。

この映画にしたがえばイアンカーティスという人物はたぐいまれな夢想家で、激しやすく冷淡
かと思えばひどく純粋で傷つきやすい。ヒリヒリするほど焦燥、砕け散りそうなほどスパーク。
実際、作中で実によく泣く。かと思えばドライなセリフ、ふるまいも多い。
境界性人格障害解離性障害、気分循環性障害を匂わせる。そしてライブ中にのたうちまわるエピレプシー。
イアンのてんかん発作はライブ中の興奮、飲酒、不規則な生活、バンドが有名になったストレス、不倫によるトラブル。
様々な要素が絡み合う。

他の女性を愛しながらなお妻に「離婚しないでくれ」と懇願する。
沈む雰囲気(atomosphere)に耐え切れず、出て行け(get out)と叫ぶアンビバレンツ。
破壊的な不安定さがJOY DIVISIONそのものだったのだろうか。




作中、イアンは職安で働いているのだが、来る人が知的障害者統合失調症者、てんかん患者などを思わせる。
(注 実際に心身障害者のための施設だったらしい)
「何が好き?」
「テレビ」
「他には?」
「朝ごはん、昼ごはん、夕ごはん」
「テレビと食事が好きなんだね。そんな君にうってつけの仕事がある。映画館のホットドッグ売りだ」
「ホットドッグは嫌い。」
「そうか。じゃあ電話してみよう。」
この会話から類推するにイアンはこの手の会話になれっこだったようだ。
おそらく相手は働きたくないけどいやいや職安に来ている。だとしたら難くせをつけて断るに決まっている。

特に気になったのは2点。
初めてのてんかん発作後にいきなりフェニトイン、カルバマゼピンフェノバルビタールetc.・・・・・
多剤併用で処方されていること。てんかん治療はまず単剤が原則。制御できなければ追加していく。まあ映画の演出かもしれないが。

作中てんかん発作を起こしたイアンが病院に運ばれる。
気管挿管されたかと思ったら胃管で、しかも薬物を中和する活性炭を入れられている。
大量服薬したのならその処置で正しいのだが、だとしても意識低下があればまず気管挿管する。
原作を読んでいないのでなんともいえないが。あるいはデボラ(イアンの妻)の記憶違いで、
大量服薬とてんかん発作を混同して書かれているのかもしれない。









最近買ったCD


凛として時雨 / telecastic fake show


代表曲「鮮やかな殺人」の2008年版を思わせるキラーチューン。
好きなアーティストとして「NUMBER GIRL」「小室哲哉」「LUNASEA」「XJAPAN」「B’z」を挙げ、
「一生POPが好きでいたい」と語る北島徹らしい3曲が並ぶシングル。
1万人フェスへの出演、クロマニヨンズとの共演を果たすなど、
9mm parabellum bulletやミドリ以上に注目されており、次世代ロックバンドの代表格となった感がある。



Qomolangma Tomato / LIMELIGHT BLUE ON THE O.T.

Group_inou / FAN


ポスト9mm最右翼としてEMIの期待がかかっているチョモ、各地のCRJなど通好みの媒体にこぞって絶賛されるinou、
彼らはライブパフォーマンスが圧倒的であることも共通点として挙げられる。
かつてドラゴンアッシュはパンクからはじまりHIPHOP、ミックスチャーに行き着いたが、
この2組はあくまでオルタナティブ、ポストロックをベースに美味しい部分だけHIPHOPの要素を取り入れているように思う。
ターンテーブルを回すGroup_inouでさえ根底に流れる血は、体感温度は、通底音は、脈打つ心臓は、只それロックビート。



『私の音楽は私がホモセクシャルであることを抜きにしては成立しない』
彼の言わんとするところはよく分かります。 自分の音楽に対して誠実であろうとすれば、
自分がホモセクシャルであることに対しても誠実でなければならない。
音楽とはそういうものだし、生き方とはそういうものです。(東京奇譚集 / 村上春樹


自分の好きなものを喋るというのは、別の人にとってはうっとうしいことが往々にしてある。
では人と話す時に熱くなってはいけないか、といえばそうではない。
例えば誰かから、相談事をされたとき、別に正確な答を出す必要もないし、
むしろ相手の悩み(それは弱みにもなり得る)を詳細に聴く必要さえない。
ただ、相手の話を真剣に聴いているということが伝わればいい。



人と人のコミュニケーションでは第一印象が一番重要な所見で 、いろいろ考えた末に話す言葉は一番重要性が低い。いろいろ考えると計算が入るから。 「自分はこういう歪んだ音が弾きたいけど、売れるのは もっとわかりやすいギターだ」とか。 その場合は本当の気持ちが否定されちゃう / 愛だの正義だの抽象的なことを持ち出すと 誤解を生じる 。「愛」と一口に言ったって千差万別 人によって定義は異なるから / もっと五感にそってシンプルに話をすると誤解が減る 。いい匂いとか、耳触りとか、響きが気持ちいいとか、プリミティブな表現、 それだとよくわかる


以下に示すのは名古屋最強のニューウェイブ、ポストパンクバンド6EYESフロントマンツチヤチカラ氏の発言。



もう今どきロックなんかで飯食えないです 。関わっている数が多すぎます。売れても金は残んないですよ 。ほとんどの場合。だからバンド解散したらみんな「ちゃんこ屋」の経営始めるんですよ。ちゃんこは日本のロッカーの 余生の生計をたてる手段としてかなり定着してきた感がありますね。というかむしろ飽和状態かも?

最近、気がついたんですが、馬鹿にした意味ではなく、世の中には想像以上にダサい人が多いということに。ロックが好きな人とかの基準でやっちゃうと、まったくついてこれない人が圧倒的に多い。 だからたぶんメジャーでやってる人っていうのは「これがいい」とか「いけてる」と思うことは 結局やれない、というかやってたら食えなくなってしまうと思ってやってると思うんです。偶然、自分の始めたことに人の注目が集まってしまってそれをさらにダサく拡大させて行き今日に至るということから抜け出せないんだと思います。
大体、曲作りって昨日の自分のダサさを越えるために 行うのが自然だと思うんですがそれやっちゃうと差がひらけてちゃうとか。たとえばあのナンバーガールのやつとか眼鏡が外せんのとかそうだと思います。 関係ないですがナンバーガールは僕は全然わかんないです。 古いですがフリッパーズギターなんかそのダサさに耐えられなくなって解散してコーネリアスもダサいの作ってたけど耐えられないから海外に移りましたね。でも、こうも僕は思います ダサくてなにが悪いまぁ僕はもともとがダサいので平気です

奥田民生とかミスチルとかスピッツはもともとがダサイからそれを継続してやってるだけでいいんですが 。斉藤和義なんてロバートクウェインにギター弾かせたり、ライダース着てたり、ルーリード、ニューヨークパンク好きなんだ。こんなダサイ事はおれの本質じゃないんだみたいなSOS出して、しみったれたバラード歌わないかんみたいのはきついんではないかなと勝手におもいます。

昔、キョンキョンが脱アイドル宣言で『なんてったってアイドル』とか歌ったり、渡辺満里奈フリッパーズに接近したりしてダサさの脱却を計ってみたけど結局、ダサイ芸能界からは抜け出せない、その後の生きる術が見当たらないということで完全に敗北していますね
椎名林檎はダサイ、ナウいの区別がつかないようなラグジュアリーな世界に逃げましたが、あの辺はセーフティーゾーンなので多少昔のダサさと向き合った時の蓄えがあれば安泰ではないかと思います。坂本龍一とかに迎えにきてもらいたいんですかね。坂本龍一とか矢野顕子とかもうほんとはやめりゃいいんですよ。音楽家とか気取ったってダサイことをたまにしないと食えないんですから。みんなお金使い過ぎなんですよ。貯金しとけばいいのに。
カートコバーンとかレッチリをリスペクトしてやまないとかいう姿勢を示すのはダサさとしては満点ですよ。



6eyes
http://www.6eyes.jp
詞 http://starman.co.jp/6eyes/lyrics.html
旧blog http://blog.livedoor.jp/whiteshock4720
新blog http://6eyes-blog.sblo.jp






難病と指定されている病気で。遺伝性、自己免疫性で慢性進行性に足が細くなっていく。臓器が弱っていく。神様がどうしてそんな病気をつくったんだろう。ただ単にかれを自然淘汰するためだけに?
逆に容姿端麗、秀才、五体満足な人物なら必ず幸せになるだろうか。
恵まれすぎていて、誰からもちやほやされて、結局その誰も気に入らないかもしれない。
気づけば独りだったり。

逆に元々足が不自由で、幼い頃からたまの外出では絵ばかり描いていた。
足がじょうぶな人と比べて旅行に人一倍苦労するから、渾身の傑作を残すようになる。
個展の会場に訪れ知り合ったのが今の奥さんで、それから幸せに暮らしている
そんなストーリーは?

人は満ち足りないからこそ、幸せになることもあるかもしれない。欠点がいとおしいこともあるかもしれない。ここまで書いて、元OGRE YOU ASSHOLEのドラマーニシアラタの言葉を想い出した。CDのジャケット画も手がけている彼は病気(病名は伏せる)で倒れて以来バンドを辞め、絵画は続けている。OGRE YOU ASSHOLEは全国ツアーするほどの知名度を得るに至った。けれどニシは「これでよかった」という。
病気になってのちの人生でこそ得られたものに感謝したいという内容だったと思う。

彼の個展に行ったことがある。
紫やピンクや大地の色遣い。奇異だけれども決していびつではない色と形。そのやわらかさ。
ただ生命力に溢れていた。
OGRE YOU ASSHOLEのVo.出戸は「やっぱりいいね」とゲストブックに記していた。

ある地方の精神科病院退院者の集まりについて記す。

精神神経誌1987 89巻6号753p 第83回シンポジウム「精神医療改革への展望」より抜粋


『ひなたぼっこの中で孤独を共有する会』。それは「非」対象化であり、互いの特異性を確認しあうことである。それは真の意味での「他者との交感」「世界との交感」である。
それは革命組織や70年代の学生運動のような「全く同じ思想の共有、深い一心同体の関係」とは趣を異にするものである。
それは深い関係ではなく、浅く豊かな関係である。その関係の中では「私」はつねに「私」に返される。「あなたのことはあなたでやりなさい」という形での私(個人としての私)ではなく、「俺はあいつとはやはりちょっと違うんだな」と感じる私(特異な存在としての私)にいつも返される。それが相互の特異性、相互の孤独を確認する集まりである。


ひととひととの関係といえば、人はすぐに「皆仲良く親密に助け合い同じ目標に向けて団結」すべきだと考えがちだ。
しかし、『ひなたぼっこの中で孤独を共有する会』はそうではない。この会は会則も統率もなく相互扶助意識も薄い、相互関係は表面的で淡白で常に初対面のように浅い。従って話される内容もてんでばらばらになる。
それなのに、全体の雰囲気はきわめてなごやかだ。一度その中に入りさえすれば実に居心地がよく、確かな連帯感と自己の存在感を味わうことができる。そんな会である。
かれらは自分達が元いた共同体へ戻ろうとするのではなく、かといって新たな共同体を創ろうとするのでもなく、いわば「自らの所属する共同体を失ったひとたちの共同体」として、『ひなたぼっこの中で孤独を共有する会』はただぼんやりと存在し続けている。
退院した人々はその中でのんびりとひなたぼっこをしながら日々を過ごしている。そういった生活のありようとはどんなものか。

具体的には、10数名の参加者が土曜日の午後に公民館に集まる。お茶を飲み、菓子を食べながら2時間ばかり一緒にときをすごす。
ただそれだけのことで特別にテーマがあるわけでも議論をするわけでもない。とりとめもない話が、てんでばらばらに続くだけである。脈絡のある話をしているかと思えばとてつもない方向へ話が飛んだり、とっぴょうしもない話をもっともらしく話し合っていたりする。相手が聞いていようといまいとひたすら喋り続ける人がいるかと思えば、逆に相手が何をしゃべっていようと黙ってあいづちをうっている人がいたり、一つの話題を共有していたかと思うと、いつのまにかめいめいがかってにしゃべっていたり。
しかし全体の雰囲気は和気あいあいとしていてなごやかである。そんな話をひとつひとつ真剣にとりあっていると疲れるが、聞くともなしに聞いていると実に居心地よく、そのまま寝入ってしまうと、だれかが毛布をかけてくれる。そんな場である。
月一回のハイキングは、日曜10時に集合していっしょに出かけるが、それぞれがそれぞれの気分に浸って帰ってくる。
したがって計画はあってなきがごとしで、博物館に行こうと出かけても、その日の天気が良すぎると「喉がかわいた、ビールを飲もう」と公園の芝生でビールを飲んで、それだけで帰ってくる、というようなハイキングだ。





『ひなたぼっこの中で孤独を共有する会』は組織としての体裁をまったくなしていない。ただなんとなく一緒にいる、そしてお互い安定する、それだけが重要なのである。
かれらは「今、自分がしゃべっている。しゃべっているのが私だということに自体確信がもてない」のである。そんな実存不安に脅えるかれらにとっては、働くとか社会の役に立つとかいう前に「明日も同じ地域に居続けられるか」が大問題である。そんな苦しさを背負いながら少しでも楽になる、安定する生き方を手探りで探している。それが『ひなたぼっこの中で孤独を共有する会』の存在理由である。


現代社会では「働くこと、社会の役に立つこと、生産性があること」に人間の価値を見出している。
労働、生産活動とは「対象化」である。それまでどこかに隠れていたものを目の前に引き出すことである。例えば山中のそれまで誰の目にも止まらなかった石を掘り出し、運びだして座敷の前にすえて庭石とすることだ。
人間に対する態度も生産活動(≒対象化)と同じように考えることができる。横にいる人間を自分の視野に捉え対象化し「○○にしてやろう」と考える。ある目標志向性をもってその人間に接する。その極端な例が革命組織や70年代の学生運動のような「全く同じ思想の共有、深い一心同体の関係」である。つまり自分の視野(≒革命思想)に捉え対象化する。
ここで考えなければならないことがある。そうやって対象化したとたん相手は革命の同志という均一な存在になってしまい、ひとりひとり全く異なるひととして捉えることができなくなってしまう。目標志向性を持って働きかける生産労働ではそのひとをありのままのそのひととして、あるいは世界をありのままの世界として捉えることができない。
ありのままのあいまいもことしたひとやせかいはうしなわれてしまう。


『ひなたぼっこの中で孤独を共有する会』のひなたぼっことは非対象化であり非生産活動である。横にいるひとを、横にいるままに、そのひとを見るともなく見ながら、そのひとの話を聞くともなく聞きながら、あるいはそのひとの存在を感じるともなく感じながら、そのひとに対して何もしない、あるいは『何もしないことをする』。そこに生まれる他者との交感、世界との交感であり、『お互いわかりあえないということだけをわかりあう』ことである。
何もしないといっても、それは体を動かさずにじっとしているということではない。子どものように体を動かす、跳びはね、転がり、走り回ることによっても世界との交感、他者との交感は可能であろう。言葉や直接的な行動以外にこそ驚くほど豊かな情報がつまっているのだ。

つまるところ、ここでいう『ひなたぼっこ』とは単なる『無為』ではない。それは明確な目的を持った極めて積極的な人間の活動でさえある。

2001年3月6日 マイケルジャクソン イギリス ケンブリッジ大学にて

bookended2008-04-11


「私には子ども時代がありませんでした。」
彼はそう語った。彼は若くして成功をおさめたアーティストではあったけど、幼年時代からステージで脚光を浴びていたことが、必ずしも彼のプライベートな幸せには直結しなかったってことさ。



「私達はみんな子ども時代に多くのことを学びます。世の中のことなんておかまいなしに遊びほうけて、両親から大切にされ、悩み事といったら学校のテストくらいなものです。
しかし私はその子ども時代が欠けたまま大きくなったのです。コーラスグループで休み無く歌い踊っていた私は当時5歳でした。もちろん音楽活動はずっと好きで楽しみながら続けてきたものですが、小さい頃は何よりふつうの子どもでありたかった。友達と木の家をつくったり、ボール投げやかくれんぼをして過ごしたかったのです。名声を得ながらも私は、好きなように自由に遊ぶ子ども達の笑顔がうらやましかった。
その頃すでに有名人だった私は出掛けるときは変装しなければなりませんでした。たまの休日に郊外の街に出かけて、商店街の雑踏や、公園で遊ぶ子ども達や、ベンチでまどろむ子守役の老婆を眺めながら、すばらしく平和できらきら光る日常の光景に浸ってゆくことが何よりも楽しかった。
取るに足らない平凡なことと誰もが思うでしょう。まさにそういったことが私を魅了してしまったのです。」

どんな子どもでも一人一人無条件に愛される権利が必要です。
どんな状況においても愛され保護される権利、どんな子どもでも自分に価値があると信じられる権利、どんな内容であれ話を聞いてもらえる権利、いじめにおびえずに平等に教育を受ける権利。肌の色が黒いか白いかとか、どんな宗教を信じているか以前に、わたしたちは自分が愛されていると知るべきです。」(以上、M.J.の講演内容です)



人生において栄光を勝ち取るには、それなりの課題や困難、苦悩やストレスを乗り越えなければなりません。乗り越える際に支えになるものは「幼児期からの心地良い体験」にほかならないのです。


 ひとつの考え方。人間の身体には治癒系ともいうべきシステムが存在している。DNAの損傷に対する自己修復システムをはじめとする細胞、組織、器官レベルに存在する自己回復システム。さらには神経、内分泌系、免疫系のネットワークが奏でる自己治癒のシステムまで含まれる。

 病因を見つけ、それを除去しようとするのではなく、人間が本来持っている自然治癒力を引き出すという視点。治癒系をうまく働かせる。薬は治癒力を引き出しやすい状況をつくる手助けとして用いる。

その人にとって、現在、何が問題なのか明確にする。過去や病因には深入りしない。
本人にとっての真実が、すなわち真実であるという前提に立つ。客観的に真実と思えないことでも、本人にとっての真実に基づき話を進めていく。それが信頼形成において大切。
本人が「できていること」を重視する。本人の悩みやこだわりは「あってもしょうがない」「そんな目にあったら落ち込んで当然」として承認する。