bookended2008-06-03

私たちは「わかりあえない」ということしか、最終的には分かり合えないのかもしれない。
ドナ ウイリアムズの「nobody nowhere」を読みながら思う。著者は広範性発達障害を抱えていて、かつ豊かな創造性を持ち合わせていた。だから「人とは違う自分の感性」を素晴らしい文章にまとめあげることができた。著名な児童精神科医がどんなに文章を重ねても、実際に体験している人の筆に勝るはずがない。(どうでもいいが、邦題「自閉症だった私へ」は分かりやすいが正確な表現ではない、自閉症というより彼女は広範性発達障害の高機能群だろうし、そもそも広範性発達障害は治る疾患などではない、克服するものだ)

広範性発達障害とは、より正確には「広範囲にわたる精神発達の差異」とでも呼ぶべきだろう。「広範囲にわたる精神発達の差異」がある人は、他の人間が気付かないようなかすかな情報をある限定された分野において感じ取ることができる。それは聴覚かもしれないし、視覚かもしれない。しかしそのかわりにある部分は欠落し、苦手な能力が出てくる。その差異がきっかけで日常生活に著しい困難が生じたとき、初めてそれは障害となるのだ。
一応述べると、これは私個人の持論であり、学会で承認された定説ではない。以降の論議もすべて私独自の考えだ。

実際に、過去の著名な科学者、作家、画家、音楽家、宗教的、政治的カリスマの中には「広範囲にわたる精神発達の差異」を思わせる、疑わせる人物が多数存在する。アインシュタイン三島由紀夫手塚治虫ゴッホ、ジョンレノン、そしてジーザスクライスト、ブッダ、ジャンダルク、織田信長ソクラテスユング、「カラマーゾフの兄弟」の主人公アリョーシャ。少しでも疑える人物を挙げだすときりがない。彼らは非常に創造的な仕事を成し遂げ、時に世界の流れを変えた。

ドナ ウイリアムズの「nobody nowhere」に話を戻す。彼女の青年期のエピソードに、楽譜もコード進行も一切無視して素晴らしい音楽を奏でた、とある。ある日、彼女が弾いていた曲を母は「それはベートーベンよ」と言ったという。伊坂幸太郎の「ラッシュライフ」中に「ニュートンを知らずに自分で万有引力を発見する」青年が出てくる。似ている。
予知能力のようなものがあったというエピソード。彼女は漠然とした気配を感じ、その人の未来を予測できたという。「これから転ぶ人はどこかに油断がある、その気配をなんとなく感じ取る。あ、転ぶなと思ったらやはりそうなる」と。こういった能力は村上春樹が80年代(ドナの著作の発表前に)にダンスダンスダンスに出てくるユキという少女を通じて描写していた。村上と伊坂の作風が似ている理由の一つはここにある。彼らは「広範囲にわたる精神発達の差異」というものを知っているのだ。


広範性発達障害による感性の差異があるために周囲に溶け込めなかったり、あるいは過酷な家庭環境による精神負荷がかかったために、様々な不安や恐怖に襲われ、ある閾値を越えたとき、人は統合失調症を発症する。統合失調症とは疾患ではないかもしれない。
その人の生き方、考え方、物の感じ方の差異が基盤にあり、なんらかのきっかけで世界全体の情報量の渦に巻き込まれる。頭の中の住人たちが一斉に騒ぎはじめる、巨大な空が、巨大な空そのものとしてあなたに覆いかぶさってくる。それは圧倒的な恐怖だ。そのとき世界は自分であり、自分は世界である。つまり神と同じだけのつらさを背負わなければならない、それはジーザスクライストが人類すべての原罪を背負い死んでいった体験。そんな目にあえば理性を保てるはずがない。それに耐えうる人間こそ創造的な仕事をこなせるのだ。

ユングの心理学では
自分=自我、つまり意識。
それに対して
世界=自己、つまり無意識

という対の概念がある(対立概念ではない)。自我は「今感じている自分」だ。それに対して自己とは何か。ユングは講演では聴衆に対してこう説明したという。例えば、今目の前にいるあなたたがたは「私にとっての自己」ですと。

つまり世界全体は無意識とつながっているといいたいわけだ。無我の境地とは無意識へと沈み退行することであり、自分が世界と合一することである。それを創造的な「無為」と呼ぶ。一方、統合失調症慢性期の状態も無為自閉と呼ばれる。これは退行は退行でも病的退行の結果である。

退行を創造的なものにするためには、本人の圧倒的な意思の力と、周囲のサポートが必要になる。それがあって初めてブッダジーザスクライストは人を救えた。彼らに出会うとき、民衆はブッダ自身であり、ブッダは民衆自身になる。
その力を中途半端に身につけて、悪用すればヒトラーや麻原のような悪のカリスマになるのかもしれない(もちろん彼らも最初は純粋に民衆のためを思って立ち上がったのだろうが)。「広範囲にわたる精神発達の差異」を持つものは、その転び方次第で神にも悪魔にもなり得る。もしも彼らが自分が人と違うことで悲しみ、他人の気持ちを理解しようと努めれば彼らはブッダのような人物になる。逆に自分が人と違うのは自分がエリートだからで、人々を屈服させる権利が俺にはあると思った瞬間、彼はヒトラーになる。人を破壊へ導く力こそ村上春樹のいうダークパワーであり、「ねじまき鳥クロニクル」のワタヤノボルはその力そのもので、主人公とワタヤノボルは対となり、二人で一つなのかもしれない。何かを損なう力と、取り戻そうとする力の衝突は宇宙生成のエネルギー、ビッグバンに近いかもしれない。
昔、栗本薫グインサーガの著者)が「禍つ神」という概念を作中で使った。「禍つ神」の例としてブッダ織田信長といった人物を挙げていたと思う。
本人はいたって常識にしたがって行動しているつもりでも、なぜか彼を中心に争乱が起きるような人物と説明していた(心理学用語ではトリックスターのことだろう)。それは村上春樹の書く多くの主人公に当てはまる。「羊をめぐる冒険」を思い出してみて。
どんな生物集団でも何%か異端が存在する。なぜか。ある年に致死的なウイルスが流行って集団がほとんど全滅しても、何%かが生き残るためだ。それと似た理由かもしれない。「禍つ神」は必ず社会情勢が停滞したときに現れ、今までの常識的な概念や澱んだ旧体制の血を洗い流す。

ロックミュージックの話を軽くする。
その登場の仕方は、決して中央の主要な動きによらない。例えばデッカのオーディションを「個性がない」という理由で落とされたDAVIDBOWIE、ミネアポリスのひねくれ者、以降のヒップホップシーンの源流がほぼすべてあるPRINCE、あまりにも登場が早すぎた伝説、velvet under ground。枚挙に暇ない。
2000年代の日本のロックシーンに話を移すと、インディーズでありながら、しかも、あまりにも過激で一般受けしないサウンドでありながら、その圧倒的な熱量とテクニックでごり押しで認めさせ、急激にライブ動員を増やし続けている「凛として時雨」こそ最大の「禍つ神」だろう。彼らは無意識の扉を開け、世界を破壊し創造する鍵を手中にした。そう見える。

余談だが、ポーティスヘッドの新作が異常によかった。現在の世界を表している。そう思った。インタビューで、「たとえば今の世の中は、誰かが通りで死んでいても誰も気にしない、なかったことにして通り過ぎていく。それは絶対におかしいんだ」という内容を語っている。長々と私が書いたことは極論すればこういう感性のことで、あるいはQomolangma tomatoの音楽性のこと。このバンドはまるで21世紀のJOY DIVISIONのようだ。

SAKAE−SPRINGにすこしだけ参加した。昔好きだった2つのバンドを観た。一つはどちらかといえば好みの音楽ジャンルではない、けれどかれらはやりたい音楽を辞めたとたん死んじゃうんじゃないか」とさえ思った。生と死に立ち向かっていた。もうひとつは凄く好みの音楽に近づいたのになぜか面白くなかった。彼らがその音楽をやる必然性が感じられなかった。型をなぞっているだけに思えた。