統合失調症は均一な一群ではない。

妄想幻覚などの陽性症状はうつ病、不安障害の重症例や発達障害などほぼすべての精神疾患で生じうる。木村敏は高機能発達障害統合失調症の前段階は大きく類似すると答えた。診断基準はあくまで表に表れた結果を評価する。なぜ妄想に至ったか、素因は何があったかなどは伝統的診断として形骸化している。当然ながら、統合失調症と言われている人でもうつになるし、人格の歪みも生じうる。
抑うつ気分、不安、妄想、すべて二次的症状であり病態の本質ではないのかもしれない。
木村敏が言う「統合失調症の本態はそのひとの生き方」という解釈は、生き方=世界との接し方、つまり世界をどう解釈するか=認知のしかたということになる。そこから統合失調症のフィルター仮説(多くの情報を遮りきれない)につながる。ストレス脆弱性仮説も「その人が世界の現象を他人より、より脅威的に捉えるからは発症する」と説明しなおすと結局は同じことの言い換えだとわかる。

発達障害自閉症周辺群)がコミュニケーション障害をきたすのも、「他の人と認知の仕方が違うから世界の莫大な情報がいっぺんに入ってきて処理しきれないから」。つまり、たとえば他人に声をかけられた瞬間そのひとの言葉だけではなく、声色、手振り、表情、気配、その人間すべての情報を捉えてしまうから。
神でもなければ、そんなものすぐに理解できるはずがない。だけど人は「こいつは馬鹿だから会話ができない」と誤解する。

だから人が当たり前に処理している自明の概念、愛とか友情とかがうまく理解できない。情緒的なものが把握しにくい。稲中卓球部で前野君が叫んでいるように「愛」という概念をそのままに理解することはキリストにでもならなければ本来無理なのだ。
自明性の喪失とは統合失調症で言われることだが、同時に自閉症の中心病理にも近い。
「愛」をわかったふりしている人々と、その意味を、莫大な情報を処理しようと苦しむ自閉症の人とどちらが狂っていると思いますか。
自閉(心を閉ざす)や統合失調(心がまとめきれない)とは結果であり、その本質は感覚過敏である。

発達障害を極端な群(患者群)ではなくもっと広く捉えた場合、発達の差異、さらにいえば認知の仕方の差異、ものの受け止め方の差異になる。
それは後天的なものと先天的な情報処理システムの差異にわかれる。先天的なものは発達障害となり、アスペルガーADHDなど微細脳機能障害といわれる一群の内、さらに一部は天才的な科学者になる者もいる。「愛」などの抽象概念の解釈によっては性同一障害をきたすかもしれない。後天的なものは統合失調症と呼ばれるだろう。
「認知の差異」を考え方の中心にすえた場合驚くほど事態は明瞭になるのです。

アスペルガー症候群は

①情報の受け取り方の違い(感受性の違い)
②能力のアンバランス(できることとできないことの差が激しい)
といった独特な個性があります。

100人に1人の割合といわれています。集団での活動が苦手だったり、行動上の問題を起こしたり、わがままな子どもと思われ孤立する場合には、介入が必要になります。
自閉症に似ていますが、従来の障害児のイメージとはかけ離れています。自閉症アスペルガー症候群も、広範性発達障害PDD(pervasive development disorder)という概念の中に含まれます。

アスペルガー症候群の特徴をくわしく説明すると
①情報の受け取り方の違いとは、広範な選択的注意の障害(知覚過敏)があり、雑多な情報にさらされながら必要な情報を自動的に絞り込むことが困難。
→複数の情報を同時処理できない。一つの視点から別の視点へ切り替えるのが難しい
→他者の立場にたって考えることが難しい。次に起きることの予測が困難
→他者との交流をさけてしまう。自分独自の世界観、こだわりを持っていく
→全体より細部に注意が向く細部拘泥性、活動と興味の反復、強迫傾向を時に生じる。優れた機械的記憶を示したとえば円周率を全て暗記する子どもも存在する。これが②の特徴。

①②を理解した上でなら、次の特徴はより本質的に理解できます。

③社会性、コミュニケーション、想像力の障害、
・情緒的交流が困難、感情の急遽さあるいは平坦さ
・言語の抽象的意味理解、非言語的コミュニケーションが困難

複数の情報を同時処理することが難しいため、結果的に、相手の表情、ジェスチャーが読めない。実際にアスペルガー症候群の人は立体的な顔の表情を把握するのが、平面を把握するより難しいという研究結果があります。







情報の受信、発信。つまり人とのコミュニケーションにおいて普通の認知能力を持った人は(この世の大部分の人たちは)相手の言葉のうち、自分に都合がよい内容、それまでのその人の人生で規格化された内容のみ選択して受信します。そしてその内容から、さらに取捨選択、要約する。あるいは都合のいい嘘を混ぜ、発信します。こう書くと感じが悪いが、それこそ嘘も方言、本音と建前を使い分ける、大人の社会技能であり、だれもが当たり前に行っていることです。

アスペルガー症候群に近い特徴を持つ人々は、誰かが発した言葉、目の前にある情景。すべての内容をそのままの膨大なかたちで受信、処理しようとします。
したがって人との会話において、その内容を「骨格」となる内容と枝葉を十分区別、理解して受け止められたらよいが、木を見て森を見ずになることが多い。
特に今まで人間関係において失敗し続けてる人はネガティブな内容を全体の中で重視して受信しやすいかもしれない。
すると当然、情報の発信時にも誤った内容を相手に伝えてしまう。しかも膨大な情報を処理するのに追われて、嘘がつけず正直に言うか、苦し紛れのばればれの嘘となる。
だから好意をもって接していてもなぜか一方的なコミュニケーションとなるし、伝わらないことが多い。

そして膨大な情報を正直にそのまま受信処理するのだから、人よりやることが遅い、マイペースと言われる。膨大な情報を処理できる=研究者、学者、芸術家に向いている場合が多いです。そういう人種に限って、誰でも出来ることは、えてして出来ないのは、たとえば靴紐を結ぶのに、結ぶ返し方のポイント以外のすべてのどうでもいい視覚、触覚を情報として受け止めているからかもしれない。。
言い換えれば広範性発達障害とは「子供の、あかちゃんの感受性」を持ち続けること。この世界をありのままに見て感動する感性を持ち続けることです。
信じやすく「えー」「本当!」と目を丸くするからリアクションが変わってると言われる。
他の人は自分の偏見の枠組みがあるから情報をそのまま受け取ったりしない。嘘だらけの世の中をちゃんと疑ってかかっているわけです

【じゃあどうすればいいか?】逆に言えば、情報の少ない中で、あるいは子供の中で生き続ければ不便を感じないのかもしれません。つまり自分の周りの情報量をある程度制限して(構造化の手法と言います)単純かつ直線的(同時並行する仕事がない)な系の中で物事をこなすようにする。砕けていえば、学校や職場から与えられた枠組みで仕事をするのではなく、できればあなた自身にとって一番やりやすい方法で、十分な時間的余裕をもって、楽しんで物事にとりくむべきなんです。

アスペルガー症候群の独自の認知様式に対する治療的アプローチ】

①伝えたい内容を明確に具体的に。一度に多くの情報を伝えず一回の提案事項は一つで。静かに無表情に抑揚つけず話す(感情的にならないことが大切)
本人は言葉の機微を解しにくいため、医療スタッフや学校、関係者の間で本人に対する言語表現を統一する。独自の言語表現は、言葉と実際の状況や行動を対応付けて理解する。
情報過多によるパニックに対しては、興奮が鎮まるのを待ち、静かに声をかけて後片付けをする。その都度、具体的な対応を本人、周囲に指示する。

②親の認識を修正する。親と子の相互理解へ。
子どもがのびのび育つには親に余裕を持っていただく。親のこれまでの努力をたたえる。
親が障害を含めてありのままの子供を知り、理解する(障害受容)ように誘導。
 肯定的な自己イメージを育てる。失敗したときは、認めてあげて、自分で考えさせる。
 マイナス思考ではなく、あれができる、これもできるとほめられれば自信をもてる。

心理療法
認知行動療法
規則正しい生活 生活スケジュールをあまり大きく変化させない。
問題を少しずつ取り上げ、その時の感情と行動を明確にする。
適応行動を話し合い、結論は簡潔に書きとめ、本人がいつでも確認できるようにする。

箱庭療法
子どもを箱庭創りに誘導する。その様子のポジティブな感想を親に伝える。
子どもの創りかた、選び方を分析し、背後にあるものをたどる。分析結果を安易に本人に伝えてはいけない。本人が箱庭を創る過程で自ずから理解していく。箱庭はかれが想像し創造した小宇宙(インナースペース)である。
子どもの表面的な症状に対して対応するのではなく、こころを理解する。

診断や特徴にこだわらず、その子を全体として捉える。この世界にただ一人独自の個性である「かれ」としてみる。子どもは言語表現に乏しく、心の中の葛藤を身体症状として訴えたりするため、表情、しぐさ、姿勢、動き、話し方、情緒、感情の動きをこちらが体験し、共感に近づいてゆく。
今をよくみて、これまでをよく知り、これからを見ていく。判断を常に保留にする。大人であってもお互いを知り合うには長い時間がかかる。ましてや子供は発達途上でありこれから大きく成長していく。その障害に由来する行動特徴、その子独自の特性をとらえ、適切な対応をする。

bookended2008-06-03

私たちは「わかりあえない」ということしか、最終的には分かり合えないのかもしれない。
ドナ ウイリアムズの「nobody nowhere」を読みながら思う。著者は広範性発達障害を抱えていて、かつ豊かな創造性を持ち合わせていた。だから「人とは違う自分の感性」を素晴らしい文章にまとめあげることができた。著名な児童精神科医がどんなに文章を重ねても、実際に体験している人の筆に勝るはずがない。(どうでもいいが、邦題「自閉症だった私へ」は分かりやすいが正確な表現ではない、自閉症というより彼女は広範性発達障害の高機能群だろうし、そもそも広範性発達障害は治る疾患などではない、克服するものだ)

広範性発達障害とは、より正確には「広範囲にわたる精神発達の差異」とでも呼ぶべきだろう。「広範囲にわたる精神発達の差異」がある人は、他の人間が気付かないようなかすかな情報をある限定された分野において感じ取ることができる。それは聴覚かもしれないし、視覚かもしれない。しかしそのかわりにある部分は欠落し、苦手な能力が出てくる。その差異がきっかけで日常生活に著しい困難が生じたとき、初めてそれは障害となるのだ。
一応述べると、これは私個人の持論であり、学会で承認された定説ではない。以降の論議もすべて私独自の考えだ。

実際に、過去の著名な科学者、作家、画家、音楽家、宗教的、政治的カリスマの中には「広範囲にわたる精神発達の差異」を思わせる、疑わせる人物が多数存在する。アインシュタイン三島由紀夫手塚治虫ゴッホ、ジョンレノン、そしてジーザスクライスト、ブッダ、ジャンダルク、織田信長ソクラテスユング、「カラマーゾフの兄弟」の主人公アリョーシャ。少しでも疑える人物を挙げだすときりがない。彼らは非常に創造的な仕事を成し遂げ、時に世界の流れを変えた。

ドナ ウイリアムズの「nobody nowhere」に話を戻す。彼女の青年期のエピソードに、楽譜もコード進行も一切無視して素晴らしい音楽を奏でた、とある。ある日、彼女が弾いていた曲を母は「それはベートーベンよ」と言ったという。伊坂幸太郎の「ラッシュライフ」中に「ニュートンを知らずに自分で万有引力を発見する」青年が出てくる。似ている。
予知能力のようなものがあったというエピソード。彼女は漠然とした気配を感じ、その人の未来を予測できたという。「これから転ぶ人はどこかに油断がある、その気配をなんとなく感じ取る。あ、転ぶなと思ったらやはりそうなる」と。こういった能力は村上春樹が80年代(ドナの著作の発表前に)にダンスダンスダンスに出てくるユキという少女を通じて描写していた。村上と伊坂の作風が似ている理由の一つはここにある。彼らは「広範囲にわたる精神発達の差異」というものを知っているのだ。


広範性発達障害による感性の差異があるために周囲に溶け込めなかったり、あるいは過酷な家庭環境による精神負荷がかかったために、様々な不安や恐怖に襲われ、ある閾値を越えたとき、人は統合失調症を発症する。統合失調症とは疾患ではないかもしれない。
その人の生き方、考え方、物の感じ方の差異が基盤にあり、なんらかのきっかけで世界全体の情報量の渦に巻き込まれる。頭の中の住人たちが一斉に騒ぎはじめる、巨大な空が、巨大な空そのものとしてあなたに覆いかぶさってくる。それは圧倒的な恐怖だ。そのとき世界は自分であり、自分は世界である。つまり神と同じだけのつらさを背負わなければならない、それはジーザスクライストが人類すべての原罪を背負い死んでいった体験。そんな目にあえば理性を保てるはずがない。それに耐えうる人間こそ創造的な仕事をこなせるのだ。

ユングの心理学では
自分=自我、つまり意識。
それに対して
世界=自己、つまり無意識

という対の概念がある(対立概念ではない)。自我は「今感じている自分」だ。それに対して自己とは何か。ユングは講演では聴衆に対してこう説明したという。例えば、今目の前にいるあなたたがたは「私にとっての自己」ですと。

つまり世界全体は無意識とつながっているといいたいわけだ。無我の境地とは無意識へと沈み退行することであり、自分が世界と合一することである。それを創造的な「無為」と呼ぶ。一方、統合失調症慢性期の状態も無為自閉と呼ばれる。これは退行は退行でも病的退行の結果である。

退行を創造的なものにするためには、本人の圧倒的な意思の力と、周囲のサポートが必要になる。それがあって初めてブッダジーザスクライストは人を救えた。彼らに出会うとき、民衆はブッダ自身であり、ブッダは民衆自身になる。
その力を中途半端に身につけて、悪用すればヒトラーや麻原のような悪のカリスマになるのかもしれない(もちろん彼らも最初は純粋に民衆のためを思って立ち上がったのだろうが)。「広範囲にわたる精神発達の差異」を持つものは、その転び方次第で神にも悪魔にもなり得る。もしも彼らが自分が人と違うことで悲しみ、他人の気持ちを理解しようと努めれば彼らはブッダのような人物になる。逆に自分が人と違うのは自分がエリートだからで、人々を屈服させる権利が俺にはあると思った瞬間、彼はヒトラーになる。人を破壊へ導く力こそ村上春樹のいうダークパワーであり、「ねじまき鳥クロニクル」のワタヤノボルはその力そのもので、主人公とワタヤノボルは対となり、二人で一つなのかもしれない。何かを損なう力と、取り戻そうとする力の衝突は宇宙生成のエネルギー、ビッグバンに近いかもしれない。
昔、栗本薫グインサーガの著者)が「禍つ神」という概念を作中で使った。「禍つ神」の例としてブッダ織田信長といった人物を挙げていたと思う。
本人はいたって常識にしたがって行動しているつもりでも、なぜか彼を中心に争乱が起きるような人物と説明していた(心理学用語ではトリックスターのことだろう)。それは村上春樹の書く多くの主人公に当てはまる。「羊をめぐる冒険」を思い出してみて。
どんな生物集団でも何%か異端が存在する。なぜか。ある年に致死的なウイルスが流行って集団がほとんど全滅しても、何%かが生き残るためだ。それと似た理由かもしれない。「禍つ神」は必ず社会情勢が停滞したときに現れ、今までの常識的な概念や澱んだ旧体制の血を洗い流す。

ロックミュージックの話を軽くする。
その登場の仕方は、決して中央の主要な動きによらない。例えばデッカのオーディションを「個性がない」という理由で落とされたDAVIDBOWIE、ミネアポリスのひねくれ者、以降のヒップホップシーンの源流がほぼすべてあるPRINCE、あまりにも登場が早すぎた伝説、velvet under ground。枚挙に暇ない。
2000年代の日本のロックシーンに話を移すと、インディーズでありながら、しかも、あまりにも過激で一般受けしないサウンドでありながら、その圧倒的な熱量とテクニックでごり押しで認めさせ、急激にライブ動員を増やし続けている「凛として時雨」こそ最大の「禍つ神」だろう。彼らは無意識の扉を開け、世界を破壊し創造する鍵を手中にした。そう見える。

余談だが、ポーティスヘッドの新作が異常によかった。現在の世界を表している。そう思った。インタビューで、「たとえば今の世の中は、誰かが通りで死んでいても誰も気にしない、なかったことにして通り過ぎていく。それは絶対におかしいんだ」という内容を語っている。長々と私が書いたことは極論すればこういう感性のことで、あるいはQomolangma tomatoの音楽性のこと。このバンドはまるで21世紀のJOY DIVISIONのようだ。

SAKAE−SPRINGにすこしだけ参加した。昔好きだった2つのバンドを観た。一つはどちらかといえば好みの音楽ジャンルではない、けれどかれらはやりたい音楽を辞めたとたん死んじゃうんじゃないか」とさえ思った。生と死に立ち向かっていた。もうひとつは凄く好みの音楽に近づいたのになぜか面白くなかった。彼らがその音楽をやる必然性が感じられなかった。型をなぞっているだけに思えた。

基本症状と治療 

1.対人操作 
 なぜBPDの患者は人を操作してしまうのか。それはなぜ私たちが患者の作り出す渦に巻き込まれてしまうかという問いにつながる。人を惹きつける力がない患者では対人操作は起こりにくいという現実がある。対人操作の原理は逆転移なのである。彼らの持つ淋しさや孤独感、時には怒りの感情は私たちに残っている思春期的心性を刺激し、同情心や反発、嫌悪感などの感情の渦を作り出す。患者はどのようにしたら自分に関心を持ってくれるのかを目的に生きていると言ったら、言い過ぎであろうか。逆転移を防ぐ唯一の方法は距離であり、「関与しつつある自分を観察する」行為である。入院は治療者だけでなく、多様なスタッフが存在するので、ボーダーラインシフトが必要とされるのである。

2.分裂(スプリッティング)と投影性同一視
 良い自分と悪い自分の2つの自分がいると彼らはしばしば述べる。BPDでは対象が部分に分裂し、自分を受け入れてくれて抱えてくれると感じた対象の部分に対して万能的な自己が機能する。一方、自己を拒み、受け入れを排除する対象の部分に対しては破壊的で攻撃的で抑うつ的な自己が機能する。したがって対象が本来の同一性を失って部分に分裂することで、「今日の先生はものすごく悪い先生に見える」などと表現することになる。良い自分は良い対象部分と悪い自分は悪い対象部分と結びついているのである。BPDでは同一性障害はほぼ必発症状である。

3.行動化
 行動化は行動が言葉の代理になっていることを意味する。行動化はかつての体験や心的外傷、満たされなかった衝動が言語機能を経由せずに行動となって表現されるのであるが、BPDで頻発する理由は彼らのこうした衝動が言語成立以前の体験(再接近期)に基づいているからである。
したがって、彼らは自分がなぜ結果として本人の不利になるような問題行動を次々と引き起こすのか理解できない。行動化は禁止するのが原則であるが、同じように重要なことは行動化を解釈してゆく操作であろう。たとえば手首を切る行動には「自分は孤独だ。誰も来てくれるはずがない。でもきっと来てくれるはずだ。誰か助けて」というような不思議な観念が背後にある。あるいは自分を罰するために行うのかもしれない。
 行動化に対して過度に反応することは、それまで無力と感じている患者に万能感を供給して行動化を強化することにつながる。周囲がはらはらするほど行動化は強化される面がある。治療者は揺らがないことが重要である。


4.抑うつ
 BPDでは抑うつ症状はすでに述べたような感情や気分の複合物であり、きわめて破壊的な性質を持っている。治療の第1歩はこの抑うつに耐える力をつけることから始める。「この抑うつは嵐のように襲ってくるかもしれませんが、あまりにも辛いときにはじっとその嵐が過ぎるのを待つしかありません。数時間時には数日続くかもしれませんが、永遠に続くことはないはずです。抑うつに耐える力がついてきたら、多少の抑うつが来てもいろいろなことができるようになります」と伝えるのもよい。実際に家事も外出もできなかった患者が抑うつに耐えることによって次第に回復に向かってゆくのである。
 この抑うつの正体は重要な人物から(広くいえば世界から)見捨てられるという幻想に由来している。治療関係において、「あなたが求めている限り、私の方から見限るようなことは決してありません」と宣言することの治療的意味はここにあり、そうした関係の中で患者はこの破壊的抑うつに耐えることを学び始めるといってもよいだろう。

?.分離と別れ
 分離は不安と抑うつと怒りを呼び起こす。分離が完成していない彼らは対象との間に強い依存関係を作るようになる。この依存関係は相互依存の関係を作りやすい。しばしば彼らは「親が(友達が)私を頼りにしてくるんで困っているんです」というが、彼らは自分の依存感情の深刻さが相互依存の中で見えにくくなっているのかもしれない。
 彼らは「分離したら自分は生きていられるはずがない」という不合理な幻想に支配されている。再接近期の不安と危機が状況によって再現されると、ちょうど潜水夫の空気チューブと命綱が断ち切られるような激しい恐怖と怒りが呼び起こされる。「分離しても大丈夫」という感覚が乏しいのである。治療者が「変わらずそこにいる存在」として機能し続けることが結局、「分離しても大丈夫」という感覚を供給する。治療途上の早すぎる分離は危険であるが、患者が直面する危機はほとんどが何らかの形で分離の問題が関与している。治療者は分離に敏感でなければならないのはこの問題が治療の最終目標であるからである。

家族教育

 患者の語る生育史生活史はしばしば患者自身の幻想によって修飾されているので、治療者は知らぬ間に「患者の語る真実の話」に巻き込まれ、家族との関係を悪化させてしまうことに注意しなければならない。母親が手を離した隙に子供が飛び出して事故にあったときに、治療は第1に緊急施術であり、その後は機能訓練であろう。親が手を離したことを責めても、傷はもう元に戻らない。病因を母親や父親に求めるような犯人探しは早晩激しい家庭内暴力を呼び起こすか、家族が治療を妨害するような結果に終わるだろう。
 家族も十分に現在の子供の問題で苦しんでいる。むしろ必要なのは家族がどう対応したらよいかを具体的に指示し、どう病理を理解したらよいのかを教えることである。

治療目標

 BPDの患者は破壊的な行動を止めたり、激しい感情表出をおさえたりすることを求めているのではない。彼らの行動は「自分でもわからないけど、そうしてしまう」という激しい感情衝動に突き動かされた結果なのである。彼らの苦しみはこのような破壊的な抑うつ感情を誰も理解できないと考えている点にある。患者の気持ちを酌むということの重要性はどの精神療法でも共通したものであるが、BPDではとくに見捨てられ抑うつの感情を理解し、その破壊的な感情体験からどうしたら自由になれるのかを探してゆくことを第1の目標にすべきであろう。
 精神療法では治療の目標を定めるようなことをしないのが普通であるが、自我の構造が病理的であり、認知の歪みがあるBPDの患者に対して非指示的で無限受容につながるような無構造な精神療法を行うと結局混乱に巻き込まれてしまうだろう。
症状は発達段階初期(再接近期)における「母から見捨てられた」という幻想から発するが、「もう一度幸福な(幻想的)母との合体と融合」を志すような病因接近的な方法は際限のないしがみつきの要求によって、耐えられなくなった治療者が結局は放り出すことになり、その結果激しい行動化を引き起こすようになる。
 BPDの精神療法は幼児期の外傷体験を癒し、あるいは意識化させて洞察に導くことではない。そうしたことは健康な自我が存在して初めて可能になるのである。幼児期の数ヶ月から数年間は成人の何十年を持っても償うことはできない。欠損は短期間の精神療法で回復させることは原理的には不可能であろう。患者はその欠損感をよく「深く吸い込まれるような穴」にたとえる。
私は「あなたの言う『穴』はこれからも塞がることはないかもしれません。しかし、穴が十分に小さくなり、吸い込まれなくなれば、あなたはきっとみんなと同じようにやってゆけるようになるでしょう」と深い共感をもって告げている。精神療法の目標は幼児期の欠損を、退行させて再現して、治療関係の中で修復してゆくことではなく、今ある自我機能を健全なシステムに修正させることにある。「いま、ここで」しか人は変わることができない。「いま、ここで」という現実の中で病理を受け止め、解釈し、健康な自我システムが機能するように援助することにある。患者の自我機能はすべて病理的なのではない。中にある健康な自我機能に語りかけるようなアプローチが基本である。
 治療は「この世で生きられる対人関係能力をつけること」であり、また「破壊的な抑うつに耐えられるだけの自我の力をつけること」にある。特に欲求不満耐性をつけることは、その後の適応的な行動を作る上で必須のものである。
BPDの治療の最大の山場は「分離」に関するものである。現実の母や父はもはや当てになる存在ではなく、しがみついても決して彼らが望むような「幼いときの母」を取り戻すことはできないと感じたとき、彼らは深い悲しみや怒りを再度体験する。その怒りや悲しみは、分離という関門を通過しないと得られないと認めたときに付随する感情である。治療者は患者の「分離」に敏感でなくてはならない。

薬物療法

 BPDでは抑うつ症状を伴うのが普通であり、症候学的レベルでは大うつ病と変わりない精神運動抑止、抑うつ気分が出現する。ただし、大うつ病のようには抗うつ剤が奏功せず、抗精神病薬抗不安剤でも行動化をおさえることは困難である。
 しかし、薬物療法は一定の範囲内では有効である。患者に病理の概略を説明し、治療契約の話をしたあと薬物のことに触れ、「薬だけで治療することはできませんが、あなたの抑うつや危険な衝動を抑えてくれる効果はある程度あります。自分でその苦痛を耐えることができないと感じているなら、飲んでみませんか」と語りかけるとほとんどの患者は服薬に同意する。薬物は精神療法の状況の中で処方されるべきである。
 「ただし、薬はきちんと飲まなくてはなりません。どの薬も安全ではありますが、大量に飲んだりすると昏睡状態で嘔吐して死亡するような事故が起こることもあります。もし、きちんと薬を飲む力がないなら、処方はできなくなります。まだ自分を守ることができないということですから。決められたように飲むことを約束してくれますね」とこれも治療契約に含める。しかし、こうした決めごとは破られることが多いが大量服薬は行動化の一つという視点で対処すべきである。