治療目標

 BPDの患者は破壊的な行動を止めたり、激しい感情表出をおさえたりすることを求めているのではない。彼らの行動は「自分でもわからないけど、そうしてしまう」という激しい感情衝動に突き動かされた結果なのである。彼らの苦しみはこのような破壊的な抑うつ感情を誰も理解できないと考えている点にある。患者の気持ちを酌むということの重要性はどの精神療法でも共通したものであるが、BPDではとくに見捨てられ抑うつの感情を理解し、その破壊的な感情体験からどうしたら自由になれるのかを探してゆくことを第1の目標にすべきであろう。
 精神療法では治療の目標を定めるようなことをしないのが普通であるが、自我の構造が病理的であり、認知の歪みがあるBPDの患者に対して非指示的で無限受容につながるような無構造な精神療法を行うと結局混乱に巻き込まれてしまうだろう。
症状は発達段階初期(再接近期)における「母から見捨てられた」という幻想から発するが、「もう一度幸福な(幻想的)母との合体と融合」を志すような病因接近的な方法は際限のないしがみつきの要求によって、耐えられなくなった治療者が結局は放り出すことになり、その結果激しい行動化を引き起こすようになる。
 BPDの精神療法は幼児期の外傷体験を癒し、あるいは意識化させて洞察に導くことではない。そうしたことは健康な自我が存在して初めて可能になるのである。幼児期の数ヶ月から数年間は成人の何十年を持っても償うことはできない。欠損は短期間の精神療法で回復させることは原理的には不可能であろう。患者はその欠損感をよく「深く吸い込まれるような穴」にたとえる。
私は「あなたの言う『穴』はこれからも塞がることはないかもしれません。しかし、穴が十分に小さくなり、吸い込まれなくなれば、あなたはきっとみんなと同じようにやってゆけるようになるでしょう」と深い共感をもって告げている。精神療法の目標は幼児期の欠損を、退行させて再現して、治療関係の中で修復してゆくことではなく、今ある自我機能を健全なシステムに修正させることにある。「いま、ここで」しか人は変わることができない。「いま、ここで」という現実の中で病理を受け止め、解釈し、健康な自我システムが機能するように援助することにある。患者の自我機能はすべて病理的なのではない。中にある健康な自我機能に語りかけるようなアプローチが基本である。
 治療は「この世で生きられる対人関係能力をつけること」であり、また「破壊的な抑うつに耐えられるだけの自我の力をつけること」にある。特に欲求不満耐性をつけることは、その後の適応的な行動を作る上で必須のものである。
BPDの治療の最大の山場は「分離」に関するものである。現実の母や父はもはや当てになる存在ではなく、しがみついても決して彼らが望むような「幼いときの母」を取り戻すことはできないと感じたとき、彼らは深い悲しみや怒りを再度体験する。その怒りや悲しみは、分離という関門を通過しないと得られないと認めたときに付随する感情である。治療者は患者の「分離」に敏感でなくてはならない。