治療者のとるべき態度

成田善弘「青年期患者と接する治療者について」『青年期患者の入院治療』金剛出版、1991年(『心と身体の精神療法』金剛出版、1996年、71-97頁所収)

「先生にお願いがあるんです。医者と患者としてでなく、人間と人間として私に接してほしい。病気の人間が本当に求めているのはそういう関係なんです」。これはある青年期の患者が最近の面接で私に言った言葉である。・・・・この患者の言葉に私はこう答えた。「私はあなたの治療の役に立ついい医者になりたいと願っている。・・・」と。・・・・[中略]

 精神療法における患者と治療者の関係は、悩みや苦しみをもってその解決への援助を求める依頼者と、それに応えうる知識と技術をもつ(と想定される)専門家との役割関係である。それはあくまで職業的関係であって、多くの場合、親や配偶者や恋人や友人に及ばないであろう。むしろそういった感情からいったん自由になって、患者との関係を冷静に観察しうるからこそ、患者の問題解決を援助しうるのである。・・・・[中略]

ここで、誠実で熱意のある、しかし経験と技術に乏しい精神療法家が青年期境界例と接するときの気持ちの変遷をたどってみる。
 治療者はまず患者の力になってやりたい、助けてやりたいと思う。そう願いつつ関わっていると、患者の一見異常と見える言動の底にある空しさ、寂しさ、悲しさが伝わってくる。
 そのうちにそういう彼らの気持ちを本当にわかってやれるのは自分だけだという気持ちになり、患者の両親、周囲の人たち、病棟の看護婦などが無理解な人間に見えてくる。
 こうなると患者と治療者の間に他者排除的な二者関係が成立し、両者はそこに埋没して、その二者関係の内側からしか世界が見えなくなる。
 冷たい世界のなかで二人だけが人間と人間とのあたたかい関係を作っているようなつもりになるが、やがて患者は退行し、分裂や投影同一視といった原始的防衛機制があらわになり、行動化が頻発するようになる。
 患者は治療者が専門家としての役割を越えて絶え間なく関心を払い、献身してくれることを要求する。治療者は患者の要求に応じかね、困惑し、時には怒りや憎しみすら感じるが、一方でそういう自分がよい治療者でないことに自責の念を抱く。
 どうしてよいかわからなくなり、どうすることもできないという無力感が生じる。治療者がこの無力感に耐えられないと、ついには、こんな患者は皆に見捨てられても当然だという気持ちになり、患者を放り出したくなる。

 これを患者の方から見ると、自分を受け入れ、力になってくれていたはずの治療者が、自分を見捨てる、悪い、恐ろしい治療者に変わってしまうことになる。 境界例の青年は対象の表の仮面がはがれて裏の恐ろしい素顔があらわになるのを恐れている。よい人ががらりと変わって恐ろしい人になる。彼らはいつもこういう不安を抱いている。
 そして、誠実な治療者が一人の人間として患者に接しようと努めていると、その意図に反してあるいはむしろその意図ゆえに、患者が恐れていたとおりの悪い人になってしまうのである。

こういう事態をどうしたら防ぐことができるのか? 「患者の力になってやりたい」という善意がどうしたら有効に働きうるのか? こう自らに問い、学び工夫しようとするところから、専門家としての役割意識や技術が生まれてくる。
 ところがその技術−例えば中立性が、ときにはそのときの治療者の生身の人間としての感情と相容れないように思われることがある。中立的であれと役割がいう。
 なぜ手をさしのべないのかと人間がいう。治療者が誠実であればあるほどこういう葛藤が生じやすい。
 ときには治療者のなかに患者の理不尽な(と見える)言動に対して人間として怒りが湧いてくることもあるが、治療者は専門家としてその怒りを抑制せねばならない。いずれにせよ治療者であるためには大変な自己制御が必要となる。
 しかしときには治療者が役割を越えて自己の感情を率直に表出することが、劇的な効果をおよぼすこともある。
 自傷行為を再三繰りかえして入院していたある境界例の女性が、また夜中にカミソリで手首を切り、私が病室に駆けつけたときもなおナイフを手に持っていた。ナイフを取り上げようともみ合ううちに私はつい患者の頬を叩いた。患者は驚いたように私を見たが、殴り返すことなくナイフを私に渡した。翌日の面接で私は患者が私を非難攻撃してくることを覚悟していたが、彼女はそうしなかった。ずっと後に、彼女はそれまでの治療経過を振り返って、あのとき治療者に叩かれたのがひとつの転機になったと述べた。腹が立ったけれども同時に治療者という人間を信頼するきっかけになったという。彼女がこう言ってくれたのは実になんという幸運であろう。われを忘れて患者の頬を叩いたときの私には、私の過去に由来する憎しみや悲しみが混然と湧出していた。それは私という人間への私自身の不信感が燃え上がった瞬間であったのに。類似の経験を持つ治療者は必ずしも少なくないと私は思う。
本当に治療が進展するのは、治療者が専門性だの役割だのという意識から抜け出したときだと言いたくなることすらある。しかしこれはあくまで幸運であって、予測し難いことである。もしそれが予測しうることで、治療者が意図してそう振る舞ったのなら、それは生身の人間の振る舞いではなく専門家としての役割行動であり技術の行使であって、一人の人間への信頼を患者に生じさせることはなかったかもしれないのである。
 とはいえ、われわれは幸運をあてにすべきではなかろう。「一人の人間として一人の人間にかかわる」といったあまりに普遍的な言葉に溺れないで、自分と患者との役割を認識し、その役割の性質と限界を認識することがやはり必要であろう。むろんその役割に閉じこもっていてよいというのではない。それを広げ、乗り越え、そして再びそれを役割に統合していく、そういう絶え間ない努力のなかにこそ治療者の専門性というものがあるのであろう。